
かわいいなと思い、写真を撮りました。

自動販売機の側面には、“せんとくん”が描かれていました。

奈良国立博物館も撮影しました。

桜の時期に奈良公園に来ることができて、

良かったなと思います。
(編集長SG・記)

奈良公園でウォーキング |
興福寺を観光 |
京都から奈良に移動 |
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先日、SOPHIAの2012年春のツアーが終了しましたが、今回から数回に渡り、大阪方面にSOPHIAのライヴを観るために遠征した際の模様を記載していきます。
4月某日のこの日、いつものように夜行バスを利用して、新宿から関西に向けて出発しました。バスの中では軽く一悶着あったものの、この日は京都駅に午前七時頃到着しました。 あいにく小雨が降っている天気の中、京都タワーを撮影しました。 ![]() 京都駅構内にあるカフェでトーストのモーニングセットを食べてから、昨年の冬に引き続き、今回も奈良を観光しようと思い、JRで奈良駅を目指しました。 途中の駅で後続の電車に乗り換えたのですが、電車を待つ間に、桜の写真をとりました。 ![]() 乗り換えた後も奈良駅に向かっていると、Team29のメンバーの本名がリンクしている駅があったので、一応撮影しました。 ![]() 無事に奈良駅に到着しましたが、この日は長袖Tシャツに薄手のアウターを着ていたのですが、気温が低く、寒さに驚きました。次回に続きます。 (編集長SG・記) ![]() |
新日本プロレスと誠心会館の抗争 後編 |
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その忘れることが出来ない名場面とは、抗争の中盤で行われた、越中詩朗、小林邦昭 VS 斉藤彰俊、田尻茂一のタッグマッチの闘いです。
四人が同時にリングの中で闘うこの試合は、突き、蹴り、投げなど、ゴツゴツとしたオーソドックスな技の応酬となりました。そもそも空手の誠心会館の選手は締め技や受け身などは習得していません。田尻選手が勢いあまってグランドの姿勢で越中選手をスリーパーホールドで締めあげると、テレビ解説の新日本の“鬼軍曹”こと山本小鉄さんは、「その締め方では決まらないですね」などと、冷静に技の分析をしていました。 闘いは進み、越中選手、小林選手、斉藤選手と比べると、実力では一枚劣ってしまう田尻選手が、試合の途中で負傷するというアクシデントが起こりました。 すると何やらレフリーのミスター高橋さんが、誠心会館の選手と新日本の選手の間を行き来して、マイクを持つと会場のファンへ説明しました。 「田尻選手が負傷して、試合を続行することが不可能となりました。しかし、空手側が選手を変えて闘いを継続したいと申し出て、新日本もそれを了承したので、試合を続行します」という内容でした。 大喜びしている観客の中で、誠心会館のセコンドについていた何名かの門下生達の中から、一人の若者がもの凄い形相でリングに立ち、小林選手に闘いを挑みます。 テレビ朝日のアナウンサーは、「名も無い選手がリングにあがり、試合が続行されました!」と実況しています。 空手の練習を少々した“名も無い選手”と、複合的な闘いに備え、体格の違いも歴然としているプロレスラーの小林選手が闘うこと自体に無理があり、この闘いは1分少々で小林選手が締め技で勝利となりました。当たり前の結果と言わざるを得ません。 しかし、仲間がやられて、「こうなったら俺がやってやる」という“名も無い選手”の気迫や、闘いに対する熱意については特筆すべきものがあり、新日本プロレスの40年の歴史の中でも、リングネームがはっきりしない選手がリングにあがったことは、おそらくこの時だけだったのではないかと思います。 この闘いを観たことにより今自分が思うことは、もしTeam29の特派員ATやBTが職場などで理不尽な扱いを受け、ボコボコにされて彼らが負傷した時には、今度は自分が“名も無い選手”となって彼らの仇を取る為に、彼らが日々闘っているリングに上がっていきたいということです。 現実と妄想が入り混じったこの思いですが、自分の想像では、あの“名も無い選手”はプロレスのリングの中での約束事をいっさい知らずに、ピュアな気持ちで仲間の仇をとりにいったのではないかと思います。そんな彼の「1分少々の闘い」は、今でも自分の心に残っています。 (編集長SG・記) ![]() |
新日本プロレスと誠心会館の抗争 前編 |
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今回は心に残る、かつての新日本プロレスのストーリーについて記載します。そのストーリーは1992年に行われた、新日本プロレスと空手の誠心会館という団体の抗争についてです。
今から20年前の話ということで、自分が覚えている範囲での記述となりますが、この抗争の始まりは、ある会場で誠心会館の選手が、新日本プロレスの小林邦昭選手と控え室で揉め事を起こし、抗争が開始するという、些細な事から闘いが始まるというストーリーでした。 東京ドームで誠心会館のメンバーが新日本プロレスに宣戦布告をすると、数日後、まず当事者である小林選手と誠心会館の実力NO.1、斉藤彰俊選手が闘うことになりました。 この闘いでは小林選手が負傷して敗北するという、ショッキングな結末となり、週刊プロレスという雑誌では、「プロレスが空手に負けた」などと当時の新日本プロレスファンの心理を煽る、屈辱的な表現が使用されました。 負傷した小林選手の仇をとるために、次の闘いで新日本プロレスは、当時若手選手だった小原道由選手を抜擢して、斉藤選手に挑む事になりました。 しかしこの闘いでも小原選手が斉藤選手の蹴り技などで血の海に沈められ、新日本が連敗する結果となりました。 この一連の闘いでは、通常のプロレスの試合とは異なり、果し合い的な位置づけの為、選手の入場シーンでは入場テーマの音楽は使用されず、観客の歓声で盛り上がる中、両陣営が入場するという演出が使用されました。この演出がさらに“リアル感”を醸し出し、闘いを盛り上げることになりました。 そしてこの闘いの輪に、新日本の越中詩郎選手と誠心会館の田尻茂一選手も加わり、タッグマッチ形式での闘いなども行われました。 徐々に新日本が盛り返していき、一連の抗争は両国国技館で小林選手対斉藤選手の因縁の対決が行われ、今度は小林選手が斉藤選手を大流血に追い込み、小林選手が勝利となり、新日ファンが歓喜することになりました。 続く千葉での闘いでは、越中選手と誠心会館の館長である青柳政司選手の闘いが行われ、青柳選手はこの闘いに負けたら誠心会館の魂が入り込んでいる、道場の看板を新日本プロレスに差し出すという決意を表明し、まさに“命を掛けた”闘いとなりました。 しかしこの闘いでは、越中選手が青柳選手をドラゴン・スープレックスで投げ捨てるなどして、越中選手の完全な勝利となり、一連の抗争は新日本に軍配が上がり、抗争は終結することになりました。 勝利を喜ぶ新日本の控え室では、当時の現場最高責任者である長州力選手が、小林選手達に誠心会館から奪い取った道場の看板を「返してこい」と指示を出し、控え室で長州選手が斉藤選手達に遭遇すると、「お前達素晴らしいよ」と気迫溢れる闘いを称えるシーンがありました。 すると一連の抗争で張り詰めた空気の中、心身をすり減らし闘い続けていた斉藤選手の目には涙が溢れるというシーンが週刊プロレスなどで報道されました。 この闘いを通じて意気投合した小林選手、越中選手と斉藤選手、青柳選手は反選手会同盟というグループを結成することになり、後に平成維新軍と改名して選手も増員。浮き沈みの激しい新日本のリングでおよそ7年に渡り活動するというビック・ムーブとなりました。 次回はこの一連のストーリーの中で、自分が忘れることが出来ない名場面がありますので、ピックアップして記載していきます。 編集長(SG・記) |
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